合気道は、動く禅と呼ぶ人もいるほど瞑想的であると言われる。
しかし、我々は日本に住んではいても日本文化には詳しくないので、結局どういうことなのか分からない。
この場合の禅と瞑想は同義に扱われているので、そういうことにして進めよう。
今では、マインドフルネスによって、瞑想の重要性や効能が世界的に認知されるようになった。
ジョン・ガバット・ジン博士によって整えられたこの方法は、禅(仏教)の伝統を元にして組み上げられたものである。禅を世界に知らしめたのは鈴木大拙だ。マインドフルネスの世界的な発展にはティク・ナット・ハンの功績も大きいだろう。
心による余計な働きを抑え、『今ここ』への気づき(サティ)を重要視することで、痛みや苦しみ、ストレスを低減し、さらには自分の本来持っている能力を十分に発揮する。それが今や、Googleやその他の世界的な企業に採用され、アメリカの州のうち半分以上が公立学校でマインドフルネスを取り入れている。
ところで、瞑想とは何をするものかというのは意外と難しい。仏教としては、お釈迦さまが悟りを開くために行った方法が瞑想(坐禅)である。なので、我々としても瞑想といったら悟りを開くためのものだと思っている。
じつは、キリスト教にも瞑想の伝統はある。
ただし、瞑想の意味が違う。キリスト教的な瞑想は、瞑想のためのテキストを読んだり唱えたりすることによって行う。頭を使って思考によって行われるものなので、そこには自ずと思考的限界が設定される。
思考を手放し、思考的限界を超えていく段階のことは瞑想とは区別して観想と呼ばれる。なので、仏教でいうところの瞑想は、キリスト教でいうと観想になる。
ちなみに、おそらく我々の感覚だと、瞑想よりも観想のほうが頭を使って思い描いているニュアンスがあるのではないでしょうか。この辺りの意味の逆転はとても面白い。
つまり、瞑想というのは、深く思考する方法ではなく、思考をも手放した状態で「今ここ」に起きていることを感じることによって、何やらどうにかなる状態を目指す方法ということになる。
では、合気道を見ていこう。
合気道でいわれていることは、
神人合一
心身一如
顕幽一如
などであるが、
これらの言葉は、通常分かれて別々に意識されているものを一つにする。あるいは、それらはそもそも一つである。という意味。
稽古において私の先生がよく使われる言葉は、
相手と一体になる
法則と一体になる
相手を見ない
対立をしない
透明な気持ちで行う
外からの作用によって生み出される自分の心や身体の反応に捉われず、自分の動きと法則とが一体となったときに技が生まれる。
まとめると、瞑想でいう「何やらどうにかなった状態」が、合気道の「技が生み出された状態」ということ。
この段階では、最後の状態が同じかどうかまでは断定できないが、プロセスはほぼ同じであるように思える。
こういうところから、合気道は動く禅、動く瞑想といわれる。